弁明

(先日の11月10日更新のオカルポッドの回で、左翼活動家の悪口を言うところが気がつけば酒が進んで政治に興味を持つことすら駄目みたいな話に発展してしまいました。マンモーさんの言う通り、中国人に土地を買われる等のことには声を上げていかなあきませんよね。反省です。今回の雑記は、「実際はこういうこと言いたかったんす」という内容です。収録前に書き終わっていた文章ですので、内容が重複していたらすみません)

ネタがないときは屁理屈or下ネタと相場が決まっていますので、またまた屁理屈を言いますが、よく議論の場で賛成派と反対派が争うじゃないですか。あれは問題の解決を目的としているのではなく、自分の主張を通したいだけの行動に思えます。中立派でチューリッヒ自動車保険で働く僕が言うのですから間違いありません。

無意識のうちにやっている行動としては、主張が自分の人生の肯定になっているということ。その議論に負けてしまうと「自分が否定されてしまう」、その強い想いから相手の主張を拒みます。例をあげると、マスク賛成派がマスクの有用性を否定してしまうと今まで付けていた過去の否定になってしまいます。マスク否定派がマスクの有用性を肯定してしまうと今まで付けていなかった過去の否定になってしまいます。その自分の立ち位置を一回置いといて、相手の主張も汲みながら建設的な議論ができれば素晴らしい結論に辿り着けるのではないかと思います。

ですから、左翼にも歩み寄るべきではないでしょうか。普通に考えれば、対国家、対体制などカッコいい立場にいる彼等に対して否定的な意見を持つのも違うんじゃないかと思うのです。後頭部から声を出すハードロックを聴いている、酒のつまみは塩、ハーレーのハンドルを足で操作している、こんな僕が対国家でバチバチに戦っている彼等に共感しないほうが不思議なのです。なんか今すぐサンドバッグに荷物を詰めて、辻本清美先生の事務所に行きたくなってきました。「先生~!生卵もってきましたよ!先生~!」と。

話が左にそれたので戻しますが、主張内容と自分の人生を切り放すことができるかが課題です。ヴィーガンが肉食の利点を語ってもいいですし、フェミニストが男性を褒めてもいいんです。ワクチン肯定派がワクチンの怖さを主張してもいいですし、創価学会員が創価の悪事を主張してもいいんです。要は、自分の思想はこうだけど、客観的に見るとこうだよね、と物事を見れるかということです。

もっとも良い例がタバコですね。身体に悪いのはわかってるけど吸っているという状況。自分の人生とタバコの利害を別で考えられていますよね。じゃあ他の問題も同じく考えましょうよ、ということ。「応援する自民党が悪いことやってます」の場合、応援する自分と自民党を批判する主張は別れてていいんです。好きだからって悪い部分に対して目をつぶっていたらジャニオタと一緒です。

ここまで読んでもらって「それって言ってることとやってることが違うだけじゃね?」と思う人がいるかもしれませんが、ちょっと待ってください。言ってることとやってることが違うというのは、ヴィーガンが餓死寸前で肉を食う、コロナは茶番と言いながら自分が罹ったら病院へ行く、反政府デモに参加しといて給付金は辞退しない、こういうことを言います。そうなったら思想なんてないようなもんですよね。

僕はいつからこんな面倒くさい人間になったのでしょうか。あの偉い発明家も凶悪な犯罪者も屁理屈を言うチンマンもみんな昔子供だったのにね…(吉井先生ー!!)

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この記事を書いた人

東北の某都市の零細企業で働く窓際びんびんサラリーマン。
幼少の頃から霊感の強い母方実家の人間や幽霊屋敷に住む友人などに囲まれて過ごすが、本人に霊感なし。
代表作「ボウィンマンの一言物申す」

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