チバユウスケが死んだ。
今年はたくさんのミュージシャンの訃報が届いたが、チバユウスケの死というのは結構くるものがある。一つの時代の終わりだと思うし、同じ時代に生きて本当に幸運だったと思う。
最初の出会いは昨日のことのように憶えていて、当時中2だったチンマン少年はどっぷりイエローモンキーにハマっていた。そこには中2特有の痛さがあって、「イエローモンキーが最高だ、他は認めねぇ」マインドで毎日を生きていて、他のクラスメイトが当時のバンドブームでやれグレイだ やれラルクだと話しているのに対し「メカラウロコ7観てみろバカ」と心の中で言っていたし(本当にごめんなさい)、学校にモーニング・グローリーを持ってきて「聴いてみて」と勧めてきた一生さんに対しては「洋楽なんて聴かんすわ」と避けていた(本当に愚かだよね)。そんな偏屈少年が給食を食べていると、スピーカーから放送委員が「次の曲はミッシェルガンエレファントでバードメンです」と言った。イントロでもう箸が止まったし、チバの声が偏屈少年をねじ伏せた。曲が終わるとすぐに友人のトモヒロと「今のヤバくね?」となり、部活中に「ミッシェルってバンドらしい」、翌日には「バードメンって曲で、チキンゾンビーズってアルバムに入ってるっぽい」、そして日曜に自転車を走らせ、どうにかして金のない中学生は中古のアルバムを手に入れたのだった。
僕が高3の2001年、仙台でアラバキロックフェスティバルが初開催された。出演者は豪華で、ピロウズ、スカパラ、ハイロウズ、グレイプバイン、エレカシ、斉藤和義、真心ブラザーズ、モンゴル800、ライズ、ラブサイケデリコ等など、当時は東北にそんなにたくさんの有名どころが一気に来るのが信じられなかった。大規模ホールと中規模ホールで1日中ライブが行われていて、次あっち行くべ、次どっち観る?と楽しかった記憶がある。そして最後のトリはミッシェル。⬆️のバンドのファン達は音楽の趣味はバラバラだが、ミッシェルが出るなら別。最後は全部の客が大ホールに集まってめちゃくちゃになった。本当に楽しかったなぁ。。。
少し話がそれるが、中原繁さんという方がいる。イエローモンキーのJAMを世に出した方だ。もう亡くなってしまったが、イエローモンキーがコロムビアを移籍するときに吉井和哉が「一緒に行かないか?」と誘ったところ、中原さんの答えはNOだった。「親であるレコード会社は裏切れない。新しいバンドを見つけて絶対成功させる。見つけたらオレの勝ち、見つかんなかったらオレの負けだよ」 そう言って笑ったそうだが、後にミッシェルを世に出したのがこの方だ。後でこの話を知ったときは驚いた。中2の偏屈少年はどこかで同じ匂いみたいなものを感じたのだろう。
チバは今頃どうしているだろう。やっぱりタバコを吸いながらビールを飲んでいるのかな。アベと再会して笑っているだろうか。もう吸い過ぎや飲み過ぎに気をつけることもない。死ぬほど楽しんでほしい。そうやって残されたファンは気持ちのやり場を見つけていく。近寄りがたいオーラも、相手を突き刺す眼差しも、哲学的な歌詞も、魂が弾ける音楽も、神様が与えたしゃがれた声も、僕は何もかもが好きだった。
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