空を飛行する謎の飛行物体UFO。
一般的に円盤状のものがイメージされますが、その円盤状のような物体が実は200年近くも前の江戸時代に現れたというのです。
一般的に「虚舟(うつろぶね)」といわれる、その正体について考えてみることにします。
虚舟の正体
虚舟の構造
虚舟の姿はさまざまな資料に現れます。
その中で、曲亭馬琴らが編集した随筆集『兎園小説(1824年)』の「うつろ舟の蛮女」によりますと、享和3(1803)年に常陸国の浜に現れた舟の形状は香盒(こうごう:香料の入れる蓋のついた容器)のように丸く、長さは三間(約5.5メートル)、舟の上部は硝子障子の窓があって、船体には松脂が塗ってあり、底は鉄板を筋金にして補強してあったとあります。
日本の船(和船)は船底材の先に棒状の船首材、後ろに幅の広い戸立てをつけて、それに3段の外板と多数の船梁を組み合わせて造ります。
竜骨と肋骨で骨組みを作り、その上を幅の狭い外板を多く張っていく西洋型の船とは構造が異なります。
滝沢宗伯(曲亭馬琴の子)が描いたといわれる「うつろ舟の蛮女」の挿絵では、舟は底の部分が鉄板で構成されています。
そのため、どことなく西洋型の船の構造をしているように見えます。
なぜなら、底の部分を鉄板で補強するという技術は江戸時代の日本にはなかったからです。
そして、船体上部の硝子障子(ガラスをはめこんだ障子)も江戸時代の船には見られない構造です。
江戸時代に作られていたガラスは熱に弱くすぐに割れてしまうもので、おそらく少しの衝撃にも弱かったはずです。
航行するに当たり、波の揺れや風雨などによる長時間の衝撃も考えなければならず、江戸時代のガラスならばすぐに割れてしまうでしょう。
また、早くからガラス工芸が発展したヨーロッパに比べて、日本では明治時代になるまでガラスが日常生活に存在することがほとんどありませんでした。
虚舟は救命ボート?
以上のことから虚舟は日本の古来の和船ではなく、西洋型の船であることが考えられます。
動力については虚舟に関する資料からは不明で、挿絵からは帆や櫂、煙突なども見当たりません。
そのため、未確認飛行物体だUFOだといわれるのですが、私はここで、この舟は救命ボートではないかと考えてみました。
あまりにも唐突過ぎないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、船舶の救命ボートと考えることができる要素があるのです。
まず、舟の形状です。
お椀を二つ重ねたような形は、現在の救命ボートの形に似ているものもあります。
次に、舟の長さです。
救助ボートの長さについて調べてみたところ、長さが約3メートルあります。
虚舟の幅は不明ですが、長さは約5.5メートルと救命ボートとしては不自然ではありません。
そして、「うつろ舟の蛮女」には次のような記述があります。
その船中にあるものをこれかれと検せしに、
水二升許小瓶に入れてあり(一本に二升を二斗を作り小瓶を小船に作れりいまだ執か是を知らず)
敷物二枚あり
菓子やうものも能あり又肉を煉りたる如記食物あり
現代語に訳すと、「船の中にあるものを調べると、水二升(約3.6リットル)くらい小瓶に入っており、敷物が二枚あって、菓子のようなものと肉を練ったような食べ物があった」、とあります。
ただ、括弧内の文章には水二升が小瓶に入っていたことについて、「二升が二斗(約36リットル)なのか小瓶が小船なのかは分からない」、とあります。
加門正一氏は、馬琴親子は収集したいくつかの資料を元に、「うつろ舟の蛮女」の記事を書いたらしい、と述べています。
おそらく、元となった資料に虚舟の記載がそれぞれ異なっていた箇所があったのでしょう。
虚舟はどこに現われ、どこから流れてきた?
虚舟が現れた場所
船内に水や食料などがあることから、虚舟は救命ボートのような働きをしていたのではないかと考えられます。
なぜなら、約5メートルの舟で一人で航海するのはまず不可能だからです。
救命ボートであるならば、どこかの船舶から下ろされた物です。
では、この舟は一体どこから来たのでしょう。
そして、どこに現れたのでしょう。
まずは、現れた場所を確認します。
虚舟が現れた場所は常陸国常陸原舎り濱(現在の茨城県神栖市波崎舎利浜)とされます。
他の資料にも原舎浜(はらとのはま)、はらやどり浜、原舎ヶ浜とあって、また、郡についても鹿嶋郡、かしま郡と表現のバラツキはあります。
それらは、おそらく常陸原原舎り濱のことを指しているのでしょう。
虚舟は沖合で発見され、海辺に住む人たちによって舟は浜辺まで引かれてきました。
場所については国土地理院の古地図コレクションのページから伊能図をクリックして、『伊能大図彩色図 58 常陸 下聰 銚子湊』で確認しました。
地図を見ますと、鹿島灘を臨むまっすぐな海岸線が目に入ります。
そして利根川の河口付近のところに、文字は反転していますが、海岸に沿うように「東下村舎利」とあります。
そして、同じように反転していますが、沿岸部分に引かれている黄色の線上に「常陸原」とあります。
伊能図とは伊能忠敬及びその弟子が作成した『大日本沿海輿地全図』のことを言います。
地図は大図と中図、小図からなって、今回は縮尺が36000分の1である大図を確認しました。
伊能忠敬は寛政12(1800)年から文化13(1816)年まで地図作成のため、全国を測量しましたが、完成を見ることなく2年後にこの世を去ります。
その後、弟子達の手によって地図は文政4(1821)年に完成しました。
測量中に忠敬がつけていた日記『忠敬先生測量日記』には享和元(1801)年に鹿島郡を南から北へと測量した、とあります。
そのため、「東下村舎利」や「常陸原」は当時実在した地名ということになります。
また、地図には「舎り濱」の記載はありませんが、これは昔から地元の人が呼んでいた特有の名称だと考えられます。
忠敬たちが鹿島郡を測量した2年後の享和3(1803)年、まっすぐな海岸線の舎り濱に虚舟は現れました。
虚舟はどこから流れてきたか
次に、虚舟がどこから流れてきたかについて、舟が現れた1803年頃の日本の周辺状況を見てみます。
その頃は日本近海にロシアやアメリカ、ヨーロッパ諸国などの外国船がたくさん現れ始めた頃で、第11代将軍徳川家斉の時代でした。
当時江戸幕府は鎖国政策を取っており、オランダや清などといった、決められた国との貿易などを行っていました。
幕府は貿易を行っていない外国船が漂着して船舶の検査を拒否した場合、有無を言わせず船を打ち払い、人を切り捨てるようにという命を寛政3(1791)年に出しました。
しかしその後幕府は方針を変え、文化3(1806)年に漂着した外国船に対しては薪と水を与えて帰らせるように命じました(薪水給与令)。
当時、どのくらいの外国船が日本近海にいたかは分かりませんが、暴風雨などで船が難破し、日本に漂着することもあったでしょう。
もしかすると鹿島灘付近にも漂着した外国船もあったと思います。
そうすると、この段階で虚舟は救助ボートとして、ロシアやアメリカ、ヨーロッパ諸国などの外国船から流れてきたと考えられます。
虚舟に乗っていた女性の故郷はどこなのか
乗っていた女性の外見的特徴
では、乗っていた女性はどこから来たのでしょうか。
虚舟に乗っていた女性の容姿や服装は資料によってさまざまです。
しかし、言葉が通じないという意味の語や、「蛮女(蛮は外国人をいやしんで呼んだ言い方)」という言葉が用いられているところがあります。
よって日本人ではなく、外国人であることが分かります。
女性の顔の色は白いか青白い、または桃色で、髪の毛や眉毛は赤、赤黒いという記述が虚舟の資料にあります。
肌の色が白い、または青い特徴を持つのが一般的に白人と呼ばれることが多いコーカソイドという人種です。
この名称はヨーロッパ全土や西アジア、北アフリカに分布する人種を総称したものです。
体の色素が少なめで、金色や褐色の毛髪の特徴を持ち、皮膚は内部にある毛細血管が映ることで、ピンクに見えます。
顔の色の桃色はピンク色のことを指しています。
また、赤、赤黒い髪の毛や眉毛は褐色の毛髪の様子を表したものとみることができます(江戸時代、オランダ人やイギリス人を紅毛人と呼んでいました)。
そのため、この女性はコーカソイドに属する民族の人ではないかと考えられます。
女性の服装は資料によって着物であったり、上下に服が分かれていて、下はスカートのようなものをはいていたりするなどさまざまです。
これらの服装が民族衣装なのか職業服なのかは分かりません。
しかし、『瓦版刷り物』には服装の特徴として、錦のような織物、こはぜ(留め具)、金の筋が入ったビロウドという記述があります。
ビロード(ビロウド)は、添毛織物の一つで、中世ではすでに地中海沿岸で生産されていました。
後にヨーロッパの国々に広まり、諸国の帝王を始め、紳士淑女の間で用いられていました。
『漂流記集』「小笠原越中守知行所着舟」には乗っていた女性が口紅をしていたという記述があるので、化粧をしていた可能性もあります。
そのため、この女性は上流階級の身分にあった人と考えられます。
虚舟内にあった謎の文字
そして、舟中にあった謎の文字に女性の出身を示す手掛かりがないか考えてみます。
虚舟の挿絵には四文字から五文字の謎の文字が書かれています。
この文字は表音文字のアルファベットにしては形が違いすぎますし、表意文字もせいぜい漢字の「王」か「古」としか読めません。
漢字はコーカソイドに属する民族では使われませんので、この字は漢字とは考えにくいです。
曲亭馬琴は「うつろ舟の蛮女」で最近浦賀の沖に係留したイギリスの船にもこのような外国文字があり、女性はイギリス、ベンガル、もしくはアメリカなどの外国の国王の娘かもしれない、と述べています。
前述の通り、アルファベットには船中にあった謎の文字のようなものは見当たりませんし、ベンガル地方で用いられるベンガル文字にもありません。
とすると、これは未知の言語を表す文字ということになります。
一般的に世界には2500から3500の言語があるとされます。
もしかすると、女性が住んでいた地方や地域で話していたはずの言語やその言語を書き表していた文字は話者や使用者が少数で、現在では絶滅してしまったのかもしれません。
以上のこと踏まえて、虚舟に乗っていた女性はヨーロッパのとある国の小さな地方・地域出身の上流階級の身分にあった人と考えられます。
虚舟にはどのようなストーリーがあったのか
これまでのことをまとめると、虚舟の漂着には次のような経緯があったと考えられます。
ヨーロッパのとある国の地方・地域出身の女性が他の乗組員とともに自国の船に乗って日本を目指しました。
ところが、途中で船は難破してしまいました。
船内にあったお椀が二つ重なったような型の救命ボートに乗り込んで女性は助かって、そのまま常陸国常陸原舎り濱に漂着しました。
そして、『兎園小説』「うつろ舟の蛮女」には虚舟と女性がどうなったかについて書かれています。
虚舟が浜辺に住む人たちによって虚舟が引き上げられた後で、村(東下村?)の古老が乗っていた女性の正体についてこう考えているという話から始まります。
舟に乗っていた女性は異国の王の娘で結婚をしましたが、その後女性が不倫をしたためその相手は罰せられたのではないでしょうか。
女性は王の娘なので殺すのも耐えがたく、「虚舟」に乗せられてそのまま流されて生死を天に任せたのでしょう。
したがって、女性が持っていた箱の中にはその愛人の首が入っているに違いありません。
以前にも同じような女性が乗った「虚舟」が近くの浜に漂着したことがあって、その舟の中にはまな板のようなものの上に首が載っていたそうです。
そのため、女性が持っている箱の中にも同じようなものが入っているでしょう。
女性は処罰されたその相手がかわいそうだと思い、その首が入った箱を離さないのです。
今回、このように再び虚舟が現れたことがお役人に知られれば、雑費も掛かります。
以前に突き放した例もあったので、今回も、以前と同じように舟に女性を乗せて沖合いまで出して流してしまいました。
人を慈しむ心があれば、このようにすることはないでしょうが、この女性の不幸と考えなければなりません。
ここで村の古老は女性の正体を異国の王の娘、つまり上流階級の身分にある人と考えています。
女性には言葉が通じないため直接聞き出すこともできず、正体についてはこのように推測するしかありませんでした。
筆者もこの女性が上流階級の身分にある人なのではないかと考察しました。
しかし村の古老は女性が不倫したために、その相手が処罰され女性も舟に乗せられて流罪になって、漂着したのではないかと考えました。
そうすると、筆者の考えた説と古老が考えた説では女性が置かれた立場がまるで違います。
難破した船からの生還者と不義をはたらいて流罪になった犯罪者です。
ただし、村の古老が本当にこのようなことを話していたのかは分からないですし、「うつろ舟の蛮女」の内容も正確かどうかも分かりません。
ただし、筆者はそれを承知した上で、虚舟の正体や女性の正体について考察しています。
そして、女性は村人に虚舟に乗せられて沖合いに出され、そのまま流されてしまったようです。
虚舟が現れたことが役人に知られたらお金も掛かるため、虚舟と同じような舟が前に現れた時と同じようにしました。
前述の通り、1803年当時は貿易関係にない外国船に対して、船舶の検査を拒否した場合、有無を言わせず船を打ち払い、人を切り捨てるようにという強硬な政策を幕府はとっていました。
東下村の人たちが幕府の貿易関係にない外国船の取り扱いについて、知る由もなかったでしょう。
ただ、虚舟の騒ぎが大きくなって役人などに知れ渡ったら、面倒な事になるのではないかというのを実感していたようです。
また、見たことのない謎の舟から見知らぬ人が現れたともなれば、村人の中には少なからず恐怖心を抱いた人もいたに違いありません。
当時は現在のように、漂流者に対する救護について確立されていませんでした。
そのため、異国から来たと思われる女性を乗させて、虚舟を再び沖合いに流してしまったのではないでしょうか。
そのように結論付けることができます。
女性と虚舟はどこへ行ってしまったのかについては、誰も分かりません。
虚舟に乗って無事に故郷に戻れたのかも知れませんし、途中で行方不明になったかもしれません。
「うつろ舟の蛮女」にある通り、もし、人を慈しむ心があれば、女性はそのまま日本で暮らしていけたかも知れません。
謎が多い虚舟ですが、それにどのようなストーリーがあったのか、考えてみるのはとても面白いです。
まとめ
筆者が虚舟のことを初めて知ったのは、昨年秋に行われた茨城県北芸術祭です。
その会場の1つに、一見すると芸術とは趣の異なったような展示がありました。
その展示は虚舟の伝説を扱ったもので、そこには虚舟に関する資料や新聞記事など展示されていて、未確認飛行物体と言ってもいい謎の舟が描いてある挿絵を見たときには驚きしか感じませんでした。
他にも虚舟の中にあった謎の文字を見たときには、あまりにも奇妙な形で理解できませんでした。
よって、その時はこの舟は本当に宇宙からやってきたのではないか、乗っていた女性は宇宙人なのかと本気で考えてしまいました。
今回、虚舟の正体について考察しようと思ったのは、宇宙船ではない見方から、虚舟がどのようなものだったのかについて考えてみたかったからです。
筆者が虚舟に興味を持ったところとして、一般の人が抱いているイメージを打ち壊すところにあります。
普通、UFOなどの未確認飛行物体は国内ではなく国外での目撃例が多く、その例も20世紀に入ってから出てきたのではないかというのをご想像されるかもしれません。
しかし、虚舟はそれよりも昔の江戸時代の日本で現れました。
そのため、イメージギャップというのがかなり大きく、それが筆者の興味につながったのです。
江戸時代の浜辺に謎の円盤形の舟、その舟に乗っていた謎の女性、そして船内にあった謎の文字などミステリー要素が満載で、その要素にも心ひかれました。
沖合いに虚舟が現れた時、浜辺の村人たちはたいそう驚いたに違いありません。
虚舟の資料からは、虚舟がどのような舟なのか興味があって、舟を浜辺に引き寄せ船外や船内を調べたとあります。
しかし、調べた人や村人たちは内心怖かったはずです。
目の前にはお椀を重ねたような見知らぬ奇妙な舟があって、そして舟に乗っていた女性は言葉が通じない見知らぬ外国人で、まさに未知との遭遇です。
決められた国としか貿易していなかった鎖国政策を、江戸時代の日本が行っていたからこそ、このような感情が表れたのでしょう。
筆者は虚舟の正体を本記事では救命ボートと述べました。
舟の長さと形状、中にあった食料などを考慮した、あくまでも筆者独自の考え方なので、他の考え方については読者のご想像にお任せします。
もし、虚舟が救命ボートのようなものであれば、舟に乗っていた女性の住む地域は海難の危機意識が高かったのだろうと想像することができます。
結局、最終的な消息は不明ですが、漂着したときには女性は生きていたのは、救命ボートにあった食料などのおかげなのでしょうか。
頑丈に造られたのか、虚舟もよく沈まなかったと思います。
そのように虚舟を捉えますと、一気に身近なものに感じてきます。
そして、さらなる興味を抱くのです。
本記事について、考察したことを簡単に述べます。
虚舟の正体は救命ボートで、女性はそれに乗っていました。
虚舟が現れた場所は常陸国常陸原舎り濱とされ、虚舟は当時日本に向かっていた外国船に存在しました。
女性の出身地はかなり大まかですが、ヨーロッパのとある国の小さな地方・地域出身と考えられ、上流階級の身分にあった人とみられます。
女性は他の乗組員とともに自国の船に乗って日本を目指しました。
ところが、途中で船は難破してしまいました。
そこで、船にあった救命ボートに乗り込み女性は助かりました。
そして、そのまま鹿島灘の常陸国常陸原舎り濱に漂着しました。
しかし虚舟とともに、その後の消息は不明です。
虚舟に関する資料はいくつかあって、記述されている内容に虚舟の形状や女性の容姿などに相違点がありました。
そのため、どのように考察するかとても苦労しました。
本記事では1つの資料を主に参考にして筆者独自の虚舟やその周囲に関する考察を行い、それについて述べました。
また、西洋と日本の船舶の構造の違い、江戸時代の地図、その時代の日本の対外情勢、世界に暮らす人々の髪の色といった外見的特徴などからも考察しました。
その結果、ほぼ納得のいく説明をすることができました。
ただ残念なのは、虚舟の動力源が不明であること、船中の謎の文字からは女性の出身地を探る手掛かりが得られなかったこと、そして、虚舟と女性の消息について考察することができなかったことです。
もしこの先、虚舟に関する資料が新たに見つかったならば、本記事でできなかったことをぜひ考察したいです。
そして最後に、本記事をお読みいただいてありがとうございました。
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